”信者”のこころ〜なぜ騙され続けたのか〜

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教祖は人格者であるという幻想に惑わされ

カルト教団の教祖というのは、その教団の説く救いを体現している人として君臨している。平たく言えば、「先に救われている人」である。

”あの人のように救われたい”と羨望を一身に集める存在なのである。

 

さて、その”救い”と”人格”はどういう「関係」にあるのだろうか。

 

わかりにくければ、”人格”を「教養」「性格」「知識」と読み直してもいい。

 

ここでは、救いの条件として、人格などの条件を必要としない救いについて述べることにする。(宗教によっては、人格者を目指しその完成が救いの条件となる教えもあるだろう)

 

つまり、今から述べるのは、「無条件の救い」を説く宗教についてである。

 

無条件の救いである以上、救われるのに人格者であることは必要とされない。(もちろん、これは救われるのには非人格者になれという意味ではない。当たり前の話であるが普通の日本語が通じない人があるのでくどいが言っておく)

 

逆に言えば、「救われているとしても、人格者になる訳ではない」のだ。

 

私達の中に、

「救われている人だったら、おかしなことはしないだろう」

「救われている人なら間違ったことは言わないだろう」

「救われた人は立派な人に違いない」

という幻想がありはしないだろうか。

あるいはそういった願望がないだろうか。

実際私の中には今だにそれがある。しかしすぐにそうではなかったなと有り難く味わわせてもらっている。

 

これも逆に言えば

「あんなおかしなことを言う人は救われてはいない」ということは私には「決定」できない(感じたり思ったり想像したりするのは自由)

ということである。(ここで注意してほしいのは、「あんなおかしなことを言う人は、教学がない。救いが説けない。導けない」とは違う意味である。これは言える)

 

つまりここで言いたいのは、

 

仮に救われていなくても他人の体験を語ってそれらしく見せることもできるし、

仮に救われても努力しなければ人格は変わらないし教学も得られない

 

ということである。

救われても、嘘つきが正直者に変わる訳ではない。しかし、努力すれば正直者に変わるかも知れない。変わらないかも知れない。

「救い以外の部分」において、変わるか変わらないかは、本人の努力に因るのであって、歓びを縁としての努め方とその結果は人それぞれなのである。

 

 

 

とはいえ、その人から聞くべきかどうかはその人から発せられる言葉からでしか判断できない。しかしその言葉の多くが他人の言葉であったとは。だから剽窃をするということは、人を騙しているのと同じことなのである。

自分も同じ思いであるなら、断りを入れて他人の言説であることを述べた上で自分の言葉を添えればいいものを、そんなことすらできないような人間の何が人格者なのだろうか。

 

いつもいつも「大変お疲れのところ」と繰り返し聞かされ、本気で人格者だと信じる上司の言動に「とてもお金のためにそこまでできないな、やはり皆の後生を思って・・」と素直でバカな私は騙され続けたのである。(確かにお金はそのドス黒い欲望を晴らすための手段であって直接の目的ではなかっただろう)

実際仮に信心があろうとなかろうと、自分には人を騙すというような発想がないから信じてしまう。正直者ほど嘘つきに騙されやすいということだろうか。

 

 



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