騙されていることに気づくのは恐ろしいか
カルト教団に所属しているときに、直近の講師という人が、私を聴聞に誘おうとそれはそれは熱を入れて話してくれたものだった。(目標というノルマがあるのだから当然だ。「○○人参詣させられなければ〜〜させていただきます」という誓約書を書いていた。)
そのときの殺し文句が「会館のすぐ隣に住んでいても、聞けない人がいる」だった。遠くてもこうして足を運ばせていただけて聞かせていただける私達は無上の幸せ者だ、その人は本当にそう思い込んでいたのだろう。どんなに辛く理不尽なことでも、地獄の苦しみよりかはマシなのだ。地獄に行かなくてすむ境地、今はまだそれは獲得できていないけれど、その道を、いつしか得られるとそこに進んでいる(に違いない)という実感だけがありがたいのだ。幸せなのだ。
だが、実際はその人こそが、
「◯◯◯宗と名乗っているのに、それをまるで聞かせてもらっていない人達」
だったのだ。なんということだ。