前々の記事で、いろいろな救いがあるということを述べたのであるが、 飛雲様のコメント欄にそのことをうまく表現されているものがあった。 >「会員は成仏を目指していませんし、浄土往生を願ってはいません」 まさにその通りですね。 他でもない会員自身が「…
私は元々カルト教団を一人で抜けられるような人間ではなかった。 それでもできたのは、本当の救いを求める気持ちのほうが強かったからだ。 つまりは、如来様の力が強かったということだ。 なるべく面倒なことは避けて抜けたつもりだが、それでも多少のゴタゴ…
”救済”とか”報謝”とか”真実開顕”の仮面を被って、 法を利用して、 己の鬱憤を晴らそうとしてきた、 寂しい人なのであろう。
自分の直面している悩みや苦しみ対しての解決が得られた時に、人は「救われた」という。 あるいは、その問題や苦しみに対する解決が示されることを「救い」と呼ぶ。 人によってつまり機に応じて、救いは異なるのだ。 子供の頃に親に連れて行かれた宗教団体の…
破壊的カルトについて書かれた本はたくさんある。 私が最初に読んだのは、こういった世界では有名な『影響力の武器』(ロバード・B・チャルディーニ 誠信書房)である。心理操作とその作用について基本的なことが書かれてある。 『カルトに傷ついたあなたへ…
一度掴んだ、 「選ばれた信者として、欲と怒りと戦って”求道”していればいつか絶対の幸福が得られる」 という一種の信心は、容易には手放せない。 こちらのほうが信じ易いからである。 但しその安心も一時的である。 だから今日も聴きに来られたからと少し安…
カルト教団でも一応は「ただいまの救い」ということを看板に掲げていた。 しかし実際は捨て物を拾わせるような教えで、救いからは程遠い状態であった。 そうなると今度、信者はどのような心境に陥るか。 「救われると言われながら救われない自分」が苦しくて…
このブログは”信者の心”という観点で書いている。 かつての私の心であり、それを見る脱退してからの今の私の心でもある。 何を言っても届かず、未だに抜けられない人。私はそんな人の気持ちもよくわかる。自分がそうだったからだ。 信じて来たことを否定する…
このブログは破壊的カルト集団の一員を経験された方も、そうでない方も読んでくださっている。現に今所属中の方はどうかわからない。 だから一つの教団にとらわれず、カルト的集団の信者のこころという観点で書いている。 実際、宗教に限らず、いわゆるカル…
「申し訳ない」「申し訳ない」・・ 信者の頃、教団内でよく聞いたり言ったりしたものだ。 大抵は教祖に対して。例え他の人達に合わせたポーズであっても。 相当、お金の問題を抱えているようであるが、また言われるがままに「申し訳ない、申し訳ない」と「出…
信心獲得したらいい。 但し異安心ではなくて。 そうでなくとも、真宗ではまずそれが先である。
端的に言うと、 教祖は自力を勧めている。 それを善の勧めと言い換えてだましてきた。 あるいは変なたとえ話を使ったり、しまいには屁理屈で。 信心決定ということがあるとしても、教祖は、それを獲信者としての己だけの特別なものとしておきたいようである…
メールをいただきました。Mさんありがとうございます。 皆さん同じような経験をされて、共通の想いを抱いていることがわかります。私がこれから書こうと思っていたことも記されてありましたので、それを記事にしてお返事とさせていただきます。 信じ切って騙…
言葉の問題からカルト信者のこころを考えてきたが、 なぜカルト教団の信者になると文章が読めなくなるのか。 読めなくなるとはどういうことなのか。 見えてきたのではないだろうか。 カルト教団では根本聖典に対する教団独自の解釈というものがあって、それ…
カルト教団では、言葉が普通の本来の意味をなさなくなって、当然のように通じ合っている。それはまともな人たちには通じない。 「すべての人」 と言っても、 「教団に所属するすべての人」という意味。 「現在只今救われる」 と言っても、 「将来のいつかの…
最近は学校の課外活動の部活のあり方も見直されてきているようである。ブラック企業になぞらえてブラック部活などという言葉も出てきたりするほど、行き過ぎの部活に歯止めをかけようというものである。 以前にどこで読んだか忘れてしまったが、「なぜあんな…
あの絵を見ながら、信者は一体自分をどこに置いているのだろうか。 どうすればいいか。 直ちに向きを変え自力の心を振り捨てよである。
カルト教団の教えから脱する手がかりに関するサイトはいろいろあって、それぞれにご活躍されて本当に頭が下がる想いである。 最近また夕顔さんや飛雲さんをちょくちょく読ませていただいている。私はカルト教団の独特な曖昧な言い回しや誤魔化しの文章にトラ…
仏教や浄土真宗の本を少しずつ読みながら、再び飛雲さんを過去に遡って読ませていただいている。 カルト教団の後遺症も徐々に回復し、お聖教も合わせて内容を理解できるようになって教えの有り難さが染み入ってくる。コメント欄からもいろいろ思い出されたり…
認知症の人は、事実でないことを言うことがある。 自分がしまいわすれた財布を盗まれたとか、食べた食事を食べていないと言ったりすることである。私の身内もそうであった。 客観的に見れば、財布を盗まれたことも、食事を食べていないことも事実ではない。 …
カルト教団に奪われるものはお金だけではない。 お金は目に見えやすくわかりやすから挙げられるだけで、お金よりも大切なものを奪われるのである。 日本語を奪われ、 知性を奪われ、 判断も奪われ、 時間を奪われ、 人間性をも奪われ、 楽しみも、悲しみも、…
カルト教団の教祖というのは、その教団の説く救いを体現している人として君臨している。平たく言えば、「先に救われている人」である。 ”あの人のように救われたい”と羨望を一身に集める存在なのである。 さて、その”救い”と”人格”はどういう「関係」にある…
このブログについて
文章が読めなくなる。 日本語が通じない。 これは私自身あの中にいて感じられていった(しかもひどくなっていった)ことであるが、久々にまざまざと実例を見てここまでとは驚きを禁じ得ない。 どうしてそうなるかはまた考えるとして、 当たり前の話であるが…
セクト教団では「教祖第一」となる。教祖に服従しなければならないのだ。 しかし表向きは「救いにそのような条件はない」と言う。実際それは正しい。 それは教団内で統一されていて、教祖側は「そのようなことを指示していない」と言い、信者さえも「そんな…
セクト教団のマインドコントロール下に置かれると、善悪の判断ができなくなる。 できなくなると言うより、正確に言うと、「まともな」判断ができなくなるのである。 逆にものすごく自分たちで善悪の判断をするのであるが、悲しいほどにとち狂うのである。 我…
独裁というのは、側近とその下に大勢の群衆・大衆がいてはじめて成立しているのである。 つまりは独りだけでやっているのではなくて、独りと大勢でもって成立させているのである。どちらかが欠けたら存在しない。 独裁者がなぜ独裁者となろうとしているのか…
騙されていたということは自慢できることではないので、大きな声で言うようなことではないと思っている。しかし他人様を見ていても正直に言えることも素晴らしいと感じている。 だからことさら進んで人に言うことはないが、恥を忍んで書いている。 毎日朝の…
このブログについて - pontawaのブログ に書いたこと このブログはサブタイトルのあるようにセクト教団の騙す側ではなく、騙される側へ視線を向けて書いているものである。その教祖と集団が誤りと気付いたとき、どこが誤りであったか気づくのは自然のなりゆ…
浄土真宗の本当の救い というものに心が向いてさえいれば、 向いていなくてもなにかのきっかけで向かうことができれば、 遅かれ早かれ、自分の中で正しいと思っていたあの独創教義は破綻して、間違いにも気づくが、 もう全く別のところに向かってしまって、 …