一体どっちだ(2) 因果
因果の道理を超えた法で救われる←→因果の道理により地獄行き(深信因果)
いつだったか、直属の幹部(なので熱心な信者である)が、個別に驚いた様子で教えてくれたので、よく覚えている。こんなことを知らされた・と感心している様子で。
教学講義だかアニメ解説で、質問が出たそうである。以下その内容である。
”「因果の道理によれば私達は地獄行きのはずですが、それが極楽行きになるのは因果の道理に反しませんか」と質問が出て、その回答が
「確かにそのとおりだけれども、阿弥陀仏の本願は因果の道理を超えているので、それによって救われるのだ」と。”
ああそうでしょうよ(今更何?)と思ったのであるが、
「因果の道理を超えているから」
にその人は驚いた様子であった。
あれだけ因果の道理、因果の道理、深信因果と「叫ばれ」ながら、ある意味肝心なところで因果の道理を超えていると、因果の道理を否定されたようなものであるから、その幹部会員の話しぶりがそうであったのように、それはある程度の驚きをもって受け止められ、会員間で伝えられたのである。
聞いたことがなかったのだろうか。そんなはずはない。私は知っていたし(こうして一応は言ってある。忘れている人もいるが)
しかし普段頭の中からは抜けているか忘れている(反対の話のほうが多い)、ところがこうしてたまに聞くから必要に応じて出すのである。それで疑問が湧いても都合よく封じ込めることができる。(これが、両方言っておくということである)
さらにそれがたとえ曖昧なままであっても、いつか「はっきりする」という根拠のない希望があるから、よくわらかない話を繰り返し繰り返し聞きながらわかったようなわからないような気になって、それでもわからないところはいつかはっきりするんだからわからないのが当たり前、と「助からないのが正統派」(by夕顔さん)の集団になっていく。
しかし問題はその後である。
その中身についての話がどれだけなされていただろうか。
因果の道理を超えたところの話。これを聞くのが浄土真宗の法を聞くということだ。
聞きたくないのだろうか。