善悪の判断も奪われ
セクト教団のマインドコントロール下に置かれると、善悪の判断ができなくなる。
できなくなると言うより、正確に言うと、「まともな」判断ができなくなるのである。
逆にものすごく自分たちで善悪の判断をするのであるが、悲しいほどにとち狂うのである。
我々には社会の中で生きていくために、相互の人間関係から法律から道徳まで、強いものから緩やかなものまで、善悪の判断というものが存在する。
法律の最も激しいもので言えば、殺人、これは最も悪なのである。
そこまででなくても窃盗、盗み、脅迫、などの犯罪、これは法治国家であれば強制力をもって罰せられるものである。
法律の強制力をもたない緩やかなところの道徳や人間関係で悪と言えば、嘘をつく、人を騙す、誠実さがないといったところであろうか。
しかしカルト教団では、信者の善悪の判断基準はすべて教祖に依存することになり、善悪の判断もコントロールされ奪われるのである。
教祖は法律よりも上、(殺人も教祖が指示すれば善、盗みもOK)
ましてや常識や世間事や友人や人間関係などは言うまでもなく教祖の前では価値のないものとなり、
教祖がやっていることならば、
あるいは教祖がやれと言うことならば、
たとえ法を犯していることでも、
人に迷惑をかけても人を傷つけても、
それが善になる。
それは善である。
なんと恐ろしいことであろうか。
これはそこにいた人にしかわからない感覚かも知れない。
教祖(やその教え)に比べたら、
ほかは、全部ゴミみたいになるのだ。
それまでの価値観、価値判断が全部塗り替えられてしまい、
私を支えている土台が変わってしまう。
なにしろ、善、善と中では叫んでいるのだから、自分たちも善悪の判断はできていると思っている。だから善悪の判断そのものはしている。
しかし、「まともな」判断ができなくなっているのである。
更に悪いことには、自分たちだけがまともで教祖教団以外がみな狂っているのだと思うようになる。
こうなるともうどうしようもなく厄介である。
我ながらよくこんなところから抜け出せたものだと思う。
※( もちろん法や道徳倫理がすべての善悪の基準ではない。所詮人間の善悪の判断は自分の都合である。ならば尚更、自分には善悪の判断などできないと謙虚にならなくてはならないではないか)