教祖以外ゴミになる理由
セクト教団では「教祖第一」となる。教祖に服従しなければならないのだ。
しかし表向きは「救いにそのような条件はない」と言う。実際それは正しい。
それは教団内で統一されていて、教祖側は「そのようなことを指示していない」と言い、信者さえも「そんな指示はされていない」と言うのだ。
知識帰命というのはいけない。
間違いということは教えとして分かっている。
だけど実際はそうしないと救われないと思い込まされているから信者の「実態」は知識帰命になる。
問題は、「信者の心」がダブルスタンダードであることだ。
信者は二つの相反することを教えられている。正しいほうは表向きで、正しいほうも正しいものとして一応は信じているので、二つの相反することを信じているのだ。
しかしたいてい間違ったほうを強く信じている。だから実際の実践(行動)となると間違った行動になる。
なにゆえに信者の心がそのようなことになるのか、膨大なよくわからない話の、実際のところ信者はどこの何の話を信じているのか(なにを根拠にそちらを信じるのか)、その心の拠り所を私は知りたいのである。
まずは前回書いた「教祖以外ゴミ」についてである。
セクト教団の信者は、教祖とその教えがすべての上にあり優先されると思っている。
つまりは「一番大事」なのである。
なぜか。
セクト教団の説く救いにあうこと、つまり「救われること」が一番の優先事項となるからだ。
「救われることが一番大事」
これは間違いではない。
無常の身である。「早く救いにあうこと」を勧めるのは当然のことであろう。
だからここまではいい。
(例)
救いにあうことが何よりも大事。
だから救いにあうためにどうしたらいいのか教えが大事。
その教えを説く人がいなかったら教えが聞けない。
教えが聞けなかったら地獄に堕ちる。
法律は生きていくために助けとはなるが、地獄行きからは救ってくれない。
社会も家族も友人も地獄行きからは救ってくれない。
地獄行きから救ってくれる教えを説いてくれる唯一の人が私の教祖である。
だから法律や社会や家族や友人よりも私の教祖が第一である。
(仕事や社会活動などやめて教団の活動をすべきである)
どこが正しくてどこが間違っているのかわかるだろうか。
「どちらが正しい」「どれが正しい」ではない。
(わからない人はまだマインドコントロールの中にいるかも知れない。
何十年経っても抜けない人は抜けないのがマインドコントロールである)
「それぞれの文」のなかに正しい部分と間違いの部分とどちらとも言えない部分が含まれている。
それがわからなくなるのが、カルト教団の信者の陥っている
二元論の恐ろしさである。
(二元論に侵されているときは、二元論と言われてもそれ自体がさっぱり理解できなかった。理解不能状態であったから、当然その誤りもわからなかった )