”信者”のこころ〜なぜ騙され続けたのか〜

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年月が経って(も)

カルト教団の教えから脱する手がかりに関するサイトはいろいろあって、それぞれにご活躍されて本当に頭が下がる想いである。

最近また夕顔さんや飛雲さんをちょくちょく読ませていただいている。私はカルト教団の独特な曖昧な言い回しや誤魔化しの文章にトラウマがあるので、はっきりとした文章が好きだ。そして文章は、一部や字面に囚われるのではなくてそこで何を言わんとしているのか、そこを読み取ることが大事であると思っている。(私自身そこが読み取れなくなった教団新聞のおかしな記事が、辞めるきっかけともなった)

多少言い方がきつくてもそこに流れる心は伝わってくるものだから不思議なものだ。

 

サイトに関してある方は講師からこのようなことを言われたそうである。

「ブログの記事は、会に恨みを持って、会と会長を潰す事だけに 人生を賭けている人が、捏造したもの」

 ・・・。

この講師独自の考えなのか、教団内で誰かが言ったことに共感してそう言っているのかは不明だが、なるほどと思った。発想自体がいかにもである。

皆それぞれに仕事を持ち余の生業にも勤しみながらのことで、そんな物好きな暇人がいるとは思えないのだが、 

「ある教団に恨みをもって、その教団を潰すことだけに人生を賭けてきた人が、その為に教えまで曲げて利用したもの」

というとんでもないものならあるかも知れない。

そう考えると先の言葉も、反面教師的に考えさせられる言葉ではある。

 

 

考えてみれば、怒りや恨みというのは人間を動かす最も大きなエネルギーに成りうるものだ。(いわゆるモチベーション)

 

許せない思いは誰しもあるだろう。何年経っても。

私にもある。

 

そんな私(元信者)に対して許せないと思っている人もまたあるだろう。

カルト教団から迷惑や不快な体験を被った方々も多いに違いない。

 

しかし私には、許して下さいと言う資格もないし許せる自信もない。

 

 

 

 しかしだからこそ気をつけなければと思っている。

「俺(達)にあんなことをしやがって許せない、俺にあんなことをした奴らは間違っている、打ち負かしてやる」という自己都合で相手を責めるのならば、

 「俺様を認めなかった奴らは許せない、間違っている、今に教団を大きくして俺様にひれ伏せさせてやる」と、恨みで宗教を利用してお金や人を集め自分の信奉者を増やし自分を大きく見せることに執着した教祖の心と何が違うのだろうか。

 

いや私にはそんな醜い心は微塵もありませんというのなら、これもまた「教祖様は救われて完全人格者なので間違いはありません」と思う心と同じではなかろうか。

 

あるいはなんであんなものに騙されたのかと、騙された人を我とは違うとばかりに責めるのは自分は騙されることのない特別な人間と思っているのだろう。そして騙された人を蔑み優越感に浸ることで、あるいは騙されたという弱い立場で投げ返せないことをいいことに虐めて悦に入っているとしても、恨みの心は消えないだろう(からいつまでも虐めや責めを続けるのだろうか)。私にはそれも、己を特別な存在としてそれを認めない相手への怨念から過ちを続け(引くに引けないところまできたのだろう)、けれどもそんなことをしても恨みは晴れない姿とどこか重なって見えるのである。

 

 

 

恨みを抱えてしまうこともあるだろう。人間ならば。

 

しかしそんな醜い心も哀しさも闇も抱えたまま、それと真正面から向き合う強さも与え育ててくれるのが本物の宗教だ。人にぶつけることではきっと晴れることはないからこそ、それが救いの中にある。(もちろんそれが目的ではないが)

 

結局、それと向き合うことができずに引きずられたまま、己の暴走を止められなかったのがカルト教団の教祖なのだろう。

 

 



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