肥大化する「信心(絶対の幸福)」
最近は学校の課外活動の部活のあり方も見直されてきているようである。ブラック企業になぞらえてブラック部活などという言葉も出てきたりするほど、行き過ぎの部活に歯止めをかけようというものである。
以前にどこで読んだか忘れてしまったが、「なぜあんなに苦しい部活を続けるのか」ということについて書かれたものに印象深いものがあった。
最初に言っておくが、私は部活についての是非を言いたいのではない。
ハードな部活もやりたい人はやればよい。変な指導者や間違った指導がないところであれば。
まず、ハードで苦しい練習をしているのを見て、「どうしてそこまでしてやるのか」と人は思う。そうすると無意識にこう思うのだ。
(理由もなくあそこまで苦しいことに耐えようとする訳がない)
「きっとあの苦しさに相応する大きな喜びや快感が返ってくるのだ」と期待するのである。
そうして自分も、その達成感なり喜びなりを求めて、ハードな部活に入部する。
人間は、根拠を求めるものだ。つまり理由、もっと言えば「見返り」である。
わけもなく苦しいことなどしようとする人間はいないのである。
そして、苦しくてもこの苦しみが報われるときがくるのだからと歯を食いしばって、辞めたくなることがあっても今までの苦労を無駄にしたくないとの思いがあってやめずに頑張るのである。(そこでやめる人もいるだろうが私は愚かだとは思わない。それも一つの尊い選択である)
そうして実際になにかを成し遂げたときには、部活ならば目標の勝利なり成果をあげたとき、
「あの苦しかった苦労が報われた!」
開放感もあって、よろこびもひとしおとか倍増といったものになるのだろう。
部活ならば、一定の成果があって何らかの返ってくるものがあるからいい。
一応の終わりもある。
しかしそれがありもしない幻の目標だったらどうだろう。
永遠に得られることはない幻の「絶対の幸福という名の信心」。
これだけ苦労しているんだもの、苦労したんだもの、きっとものすごい幸福が降ってくるに違いない・・
苦労すればするほど、「絶対の幸福(一念の体験)」への期待や想像は膨らむ一方である。
きっとあんな素晴らしい体験なんだろう、こんなドエライ境地になるんだろう、
自分の中で絶対の幸福の体験・境地を妄想して作り上げ、それを延々と追い求めるのである。
そして苦労すればするほど、その分の見返りを求める心で肥大化する。
肥大化した妄想の世界だからますます到達できるはずもない。
しかし肥大化しているからこそ今更やめられない。ここで辞めたら今までの苦労が全部水の泡になると思うからしがみつく。
悪循環とはこのことだ。
信者は騙されて、追いかけるほど肥大化する幻の「絶対の幸福」を追い求め続けるのである。
自分が苦労すればするほど、返ってくるものが大きいに違いないと思う心。
これを何と言うのか。これを利用されているのだ。