信者といっても単純ではない
このブログは破壊的カルト集団の一員を経験された方も、そうでない方も読んでくださっている。現に今所属中の方はどうかわからない。
だから一つの教団にとらわれず、カルト的集団の信者のこころという観点で書いている。
実際、宗教に限らず、いわゆるカルト集団というものは共通するところが多い。人間の心理というものを巧みに利用されているのであるから当たり前といえば当たり前であるが。
しかし我々個々の人間は共通するところがあるとは言っても、一人一人をみれば性格も個性も環境も経験も異なる別個の人間である。一括りにされてはたまらないし、同じ病気であっても症状には著しく個人差があるように、カルト集団での経験やそこでの心理状況やあるいは脱会後の感情や回復ぶりというものは個人差が大きいのである。
特に、カルト的集団にはたいていその年月によって形成された強固なヒエラルヒーというものが存在して、トップをその側近が支え、その側近の下にまた幹部、幹部が下々の信者を扇動するという構造になっている。
だからそのヒエラルヒーのどの部分に属しているかによって、信者の状況も大きく異なるので一概には言えないということが多々ある。
一例をあげるならば、初期の頃ならばともかく、集団にヒエラルヒーが形成される頃には、教祖と一般信者が直接会話などすることは皆無である。
この時点で既にもう、「教祖からの直接の言葉」を聞く人間は限られてしまう。
つまりはもうこの時点で下っ端信者の間で「教祖先生はそんなことは仰有っていない」が通用する集団が出来てくる。
教祖の為に激しく働く上の方の人たちに比べて、下の方の信者は意外にのんびりしたものだということもある。
教祖先生への絶対服従が骨の髄まで染み込んでいるような側近達に比べて、一般の信者はその崇拝ぶりを、「そんなもんかなあ、俺にはそこまでできんなあ」と眺めていたりする。だからこそ義理とか断りづらいとか、不安への保険のような気持ちとか、すごい幸せへの淡い期待のような気持ちで惰性で続けたりもしているのである。