救いにあえないことが苦しいから自力のままで安心したい心を互いに利用する
カルト教団でも一応は「ただいまの救い」ということを看板に掲げていた。
しかし実際は捨て物を拾わせるような教えで、救いからは程遠い状態であった。
そうなると今度、信者はどのような心境に陥るか。
「救われると言われながら救われない自分」が苦しくてそれを正当化したいのである。
苦しいながらも少しでも安心したいから、得られると言われている信心とは別の信心で安心しようとするのである。矛盾しているが、教え自体が矛盾しているから信者の中ではそれで整合性がつくのである。
しかもそれは、救われた自分を特別の存在として一般信者から遠ざけたい教祖の利害と一致する。
だから信者も、ただいまの救いといいながら
・20年や30年で聞けるもんではない(から自分も救われてなくて当然)
・救われたなどと言う人は化城に決まっている(救われていない自分のほうが正しい)
・あの程度で救われたなどと偽物だ(←どうしてわかるのだろうか?)
と救われていない自分を正当化して、安心したいのである。
そして、教祖の自力の勧めに安心する。例えば、よく言われた
「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」
(創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会: 飛雲 ~親鸞会の邪義~)
のような言葉を聞くとどこか安心するのである。
なぜなら、
まだ自分は欲と怒りに負けて、命懸けで聞けていない。だからまだ救われていなくて当然だ
と自分を正当化できるからである。
そしてたまに、求道に励むことができると、苦しい中でも”命がけ”に少し近づけたような気がしてまた一時的に安心する。
だけど救いにはあえないからまだまだ、と思う。
そして励んでいない人を見下す。
救われないまま、求道している自分が世界の中で選ばれた一番偉い人達だと思うようになっていった。
つまりは、命がけを目指して求道しているという一時的な安心を拠り所として、それを掴んでしまって離そうとしない。教祖は離させようとしない。
丸太を掴ませているのは誰だ。
賽の河原だ。
こうして自力に励む一生求道地獄の道を進んでいたのである。(求道という名の化城信心なのだから、ある意味"求道天国"なのだろう)