”信者”のこころ〜なぜ騙され続けたのか〜

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いろいろな救いの形

自分の直面している悩みや苦しみ対しての解決が得られた時に、人は「救われた」という。

あるいは、その問題や苦しみに対する解決が示されることを「救い」と呼ぶ。

 

人によってつまり機に応じて、救いは異なるのだ。

 

子供の頃に親に連れて行かれた宗教団体の会合では、信者の体験談に大きな価値が置かれていて、その信仰によってこんな救いがありました、ということを熱心に訴えていた。体験談というものは影響力があり、布教や信者の扇動に効果のあるものだ。

 

今でも忘れられないのは(というかその人は体験談の発表となると毎年、毎回、何度も何度も登壇していたので、印象深かったというより何度も聞かされたということなのだが)、子どもの病気がその信仰によって奇跡的に回復したという話であった。

それを、毎回毎回、話すたびに涙ながらに語るのだ。もう何十回と話しているだろうに、だからもう話すと涙が出てくるという条件反射になっていたのかも知れない。

 

その人にとっての苦しみは、子どもさんの病気であったから、その解決の道としてその宗教の信仰が示され、それを選び、そしてそのとおりに信仰したら病気が回復した、だからその信仰によって「救われた」のだ。

 

これはほんの一例であるが、宗教に限らず、人間の苦しみや悩みの数だけ、救いも存在するということなのだろう。

 

だから、たとえ今すぐ救われなくとも「将来いつか必ずきっと救われる」というのも一つの救いの形だ。カルト教団の実現しない救いというのはほとんどがそうだ。そしていつしかたとえ解決がなされていなくとも、その「解決の道」が示されていることに、そしてそれを説く教祖に出会えたことに喜ぶという信仰の形になっている。

ただし、これは看板に掲げられていた内容とは違うものであった。いつの間にか、違うものを求めさせられるようになっていったのだった。

 

そのような最初に惹かれたものとは違っていたそんな救いになってしまっていたのにも関わらず、というよりだからこそ、自分たちこそ数少ない選ばれた唯一の真実の救いの対象なのだとおかしな考えに陥っていた。

しかし考えてみれば、現世利益ではない救いに心が向くということ自体、不思議なことである。人によってはそんなものの何が救いなのか、何がありがたいのかと意味がわからないだろう。一人で教団を飛び出し、伝えてくれる人を探し彷徨っている時に出会った恩人は「こんな世界が本当にあるんです。そのことを知ってほしい」と言われたが、その時私は(いや知っていますよ、だからどうしたらその世界に今、入れるのか、それを教えて欲しいのです)とこれまた不思議なことを思ったのである。

カルト教団は、カルト教団どおしで他の教団の救いを下に見て我が教団の救いこそ最上であると他の救いを見下すものだが、それがカルト的な脳であったと恥ずかしく思う。

今は別の救いを求めている人でも、やがてお育てにあって、同じ世界に入っていくというのは、そのとおりなのだとただ手を合わせ念仏するばかりである。

 

だから他宗教や様々な救い(を求める心)を、私は否定はしない。そのすべてを包み込んで、誘引してくださるのがまことのおはたらきであると知らされているからだ。

 

だけれども、カルトが問題であるのは、その救いについて、騙しによって掲げているものと実際の中身をすり替えて人の心を利用するから問題なのである。

 

 



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