”信者”のこころ〜なぜ騙され続けたのか〜

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浄土真宗の話

あけましておめでとうございます。

有り難いことに読んでいただいた方からメールをときどき頂く。

カルトから抜けて本当の浄土真宗を聞かれた人に共通しているのが、こんな有り難い教えだったとはと心の底から喜ばれていること、そして未だにカルト教団で迷っている人に早く気づいてもらいたいということである。

 

だから今回は少し浄土真宗の話をさせていただこうと思う。

浄土真宗を聞かせていただいた暁には、新年にも心底あけましておめでとうございますとご挨拶させていただけるものである。

「まだ◯◯してないからおめでとうとは言えない」というならばその人の聞いている話は、浄土真宗ではないのだろう。

聴聞に極まると言いながら、何を聞かれているのだろう。

 

そもそも”聴聞”と聞いてどういうものと思っているだろうか。あるいは思っていただろうか。

 

ありもしない貯金の為のような気持ちで、遠路はるばる、嫌でも、地獄に落ちたくないから、休みたい気持ちを堪えて、我慢して、眠気と戦って、聞かなきゃならんという感覚だろうか。

 それは聴聞ではない。誰かの無駄話を聞いているのだろう。

 

入り口に立ちましょう。直ちに只今入りましょう。

(入り口ににも入っていないと言った人があるそうだが、当たり前である。逆方向に向かわせて入れさせようとしない張本人だからである)

つまり信心(なもあみだぶつ)である。

ゴールではない、信心決定が浄土へのスタート、そこから「いつ死んでも」の世界が始まるのである。

信心がなかったら浄土真宗にならないのである。

信心がなかったら聴聞しても空振りで何一つ聞けないしわからない。

信心がなかったらお念仏しても砂を噛むようで味気ない。

聴聞とはなむ阿弥陀仏(名号)のお話だから。

 

そこでもし疑問が生まれたら、「なぜ今助かる教えなのに私は助かっていないのか」、「何も要らないはずなのになぜ」「どうなったら」等々、そしてその疑問におかしな間違いの回答「”求道”とか”真剣”とか”命がけ”が足りないから」という理由(間違い)で逃げないで、今どうなったらという心と向き合うのなら、もし求道というものがあるとすればそこからが本当の求道であろう。

 

浄土真宗が始まったなら、聴聞は楽しいものである。

(勿論当たり前だが楽しくなったり喜べたのが助かったではないし、楽しいだけでもない)

楽しいというと語弊・誤解があるかも知れない。歓び、喜び、悦びの尽きないものである。

だから聞きなさいと言われなくても、聞きたくて自分から聞きに行くものである。

「〜〜と教えて頂いて、〜〜と思わずにおれません!」「〜〜とお聞きして、〜〜と知らされました!」というようなものではない。

聞かずにはいられない。嫌々渋々じゃないのだよ。

聞くなと言われても聞かされているし、

難しい御文がわからなくても、である。

そこが浄土真宗の醍醐味であろう。

  

 



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