都合のよい自力の勧めに騙され続ける
当たり前過ぎて今更の話であるが、
捨てるべきもの(自力)とは何かがわかれば、なるほどこれは捨てがたい、あれもこれも全部そうであるから、そこのところをカルト教団に利用されていたのだということが明らかにわかる。
「いや、捨てるべきものとはわかっていますよ、でもやらないことには捨てられないではないですか」というのが信者の理論なのであるが、言い換えれば捨てられないことへの「逃げ」の一つであるが、つまりは、自力いっぱいやったら力尽きて?廃って他力に変わる?転じる?入ってくる?かのように夢見ているのである。
しかしその一方で、「念仏」は自力になるからと言って殊更に嫌って勧めない。
これもおかしな理屈である。矛盾も甚だしい。
信者の理論で言えば、自力いっぱい念仏に励んだらすたって他力の念仏に入るはずなのであるが、それは言わない。(どちらにしろ間違いであるが。)
どうしてか。
同じ自力でも、念仏では、教団にお金や労力が一ミリも入って来ないからである。