教祖様は間違ったことは言っていないという信者の心
なぜ教団の教祖の言っていることと、教祖の弟子たち(講師と呼ばれていた)の言うことが違うのか、変だなと思うより、それがむしろ当たり前なのだ、だからこその教祖様なのだと思う節があった。
後からいろいろ調べるうちに、結成当時からの組織の作られ方や構成員による組織の拡大に伴う組織の歪みやいろいろな事柄が絡み合って、要は都合のよいようにいい加減に形作られていったが故に、末端会員にとって、教祖から直々に聞く言葉と、組織的に”上司”(仕事でもないのに、カルト教団では上の人のことを上司と呼んでいた)から言われることは乖離していったのであった。
いわゆる方法論的な、誰もが知りたい一番の問題である「どうしたら信心決定できるのか」についても、確かに一所懸命活動したらできますよとか、あるいは一生懸命やらないとできませんよ、そういうことは一度も、教祖からは聞いたことがないのである。表向きは「それとこれは関係ない」、それで一貫していた。
しかし、組織の中つまり”上司”や信者の間では、「一生懸命やらねば救われない」それが当たり前であった。それだからこそ、”欲と戦って”一生懸命、まだ足らんまだ足らん(からできんのだ)と、聴聞や活動に勤しむのである。
この教祖直々の言葉と信者間での暗黙の了解との乖離を、どう合理化しているのかと言えば、「わからなくて当たり前」「今はわからなくて当然」「救われたときにすべてわかるはず」であっただろうか。
今にして思えばよくわからない変な話ばかりであったが、質問をしてもまたよくわからない答えでごまかされ続けるうちに面倒くさくなって、まあそこはわからなくていいんだよ、そこがわかったら信心決定だよ、などとこれまた盛大な間違い信心を掴まされていたのであった。