疑問をもつ心を奪われても
メールをいただきました。Mさんありがとうございます。
皆さん同じような経験をされて、共通の想いを抱いていることがわかります。私がこれから書こうと思っていたことも記されてありましたので、それを記事にしてお返事とさせていただきます。
信じ切って騙され続けて文章も読めなくなって、それなのになぜ カルト教団を抜け出すことができたのか。未だに抜け出すことができない人とできた人の分岐点はどこか。
一つの分かれ目は、疑問を持てるかどうか、である。
疑問が最初のきっかけと言えよう。
だから疑問をもたなければどうしようもないとも言える。
逆に言えば教団としては疑問をもたせないようにしたらいい。
だから信者が疑問をもつことができないようにコントロールするのだ。
・あらかじめ反対のことも言っておいて予防線を張る
・疑問や意見を持つという行為は地獄に堕ちる行為であると脅しておく
・疑問をもつという知力や気力を奪う
・過大な目標を与えて苦労をさせる(苦労をしたのにそれに疑問をもてば苦労が水の泡になるから疑問に思いたくない、つまり自分の苦労を正当化させたいという心理が、苦労が大きければ大きいほど人間には強くはたらくのである)
等々。
疑問をもつというのは自分の頭で考えているという証拠である。
自分では読めないと思っていたお聖教を自分で読んで目が覚めたという方も多い。
お聖教は難しいと思うのなら、御文章を読んでほしい。
私自身もきっかけとなったのは疑問を抱いて御文章を自分で読んだことだった。
カルト教団の中で、御文章を読むのはパッと開いて一行とか二行を抜き出して、すぐに閉じていたし、続けて読んでも一通ぐらいのものだった。平易な御文章ですら、よくわからないと思っていた。
いや、実際わからなくなるのだ。あの中にいると。
条件反射のようにおかしな読み方をするように訓練されてしまうからだ。
全部一冊とおして、読んでみたらいい。素直に初心にかえって、妙な解釈を通さずに。
何が繰り返し書かれているか。
同じことを何度も何度も、何をせよと言われているか。