信者にとって教祖に疑問をもつことは地獄に堕ちることであった
コメントありがとうございます。
https://pontawa.hatenablog.com/entry/2019/06/06/170510
頂いたコメントで考えさせられたので、先に関連してそのことについて述べたい。
件の教祖さまは
ハッキリ言わない、時に真逆を言う、会員に対して言い驚かせて、わからないのは教祖の教え方が悪いのでなく私の考えが及ばないから悪いのだと、忖度させて心理的に束縛して深く考えさせないようにしております。
そして洗脳するわけです。また講師を会員と教祖のあいだに介在させるのも、教祖の私が言ったのでなく講師がわかってなくて言ったものだ、と自分の責任から逃れる為のものです。件の会は、組織に疑問をもっても、それは講師までであり、教祖に疑問を向けさせないようにしてます。教祖に疑問を持てるか持てないかが脱会できるかできないかの別れ目ですね。
>教祖に疑問を持てるか持てないかが脱会できるかできないかの別れ目ですね。
私は以前に「疑問をもてるかどうかがやめられるかどうかの分岐点」であると書いた。しかし、それまでも疑問がなかったかと言えば、そうではない。むしろずっと疑問はあって持ち続けていたのである。
教えの内容だけではなく、組織の雰囲気も内部の人たちの言動も異常になっていく、何かがおかしいという疑問は解消されないままどんどん大きくなっていった。
そしてついに、内部の人たちに聞いてもその疑問は解消されないと悟り、自分で調べるしかないと思い至り、自分で調べることで、それまで思いもしなかった、「教祖がおかしい(間違っている)のか?」という疑問を初めて持ち、そしてそれがそうだったと知ることになるのである。教祖に向かっての疑問が湧いたのだ。
そう、私はその時まで、教祖に対して疑問をもつということが無かったのだ。
愚かでおそろしいことである。
なぜそこまで真逆のことを信じることに至ってしまったのか、過去を振り返ってまとめるには少し時間がかかるかも知れない。