嘘に支配された信者の心
前回の続きである。
その教団では、うそを合理化(正当化)するのに、
「方便」とか「深い御心」と言っていたように思う。
ずいぶん前の記事に、私がカルト教団に騙され続けた分岐点として、
「嘘を認めてしまった」
ということを書いた。
そしてそれが退会を決意するまでの間、カルト教団が私の心を支配してコントロールし続けるのに、強固な土台となったのである。
ここからは、カルト教団を経験した人でないとわからないややこしい話になる。
経験した人でも、よく整理しないとわからない話かも知れない。
強固な土台になったというのは、
例えばカルト教団の信者について、何年もいながらなぜ嘘や間違いに気づかなかかったのか?という最大の問題があるが、信者は「その嘘がカルト教団の為ならば善いものとして認めている」がために、
・嘘があってもよい(仕方ない)
・間違いを確かめようにも、教団が嘘だらけなのに確かめようもない
と思っているからである。
嘘があってもよい、というのは何度も書いているように、カルト教団という”善”、”真実”のためならば、どんな手段でも、だからそれが悪であっても、例えば嘘であってもそれは善になるという理論である。
そして、それが根底にあるがために、教団内で嘘が使われることを私の心が正当化しているがために、何か疑問が生じてそれを教団内部で確かめようにも、「どうせ聞いたところでそれもまた嘘かも知れない(嘘であってもそれは自分のためだから仕方ない)」と思っているから、確かめようという気力も生まれなかったのである。
要するに、嘘でもいいから一時の安心が欲しいという私の心が利用され、私自身が嘘を正当化し許すような人間にされてしまい、その結果、自分自身が許した嘘の教えによって、自分自身が本物から遠ざけさせられていたのである。
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カルト教団を経験したことがない人には、2つ目の
・間違いを確かめようにも、教団が嘘だらけなのに確かめようもない
の意味がわからず、???であろう。
「じゃあ、教団じゃない他の人に聞けば?」←そのとおりである。
この文章を正確に言えば、
・「教団内において」、間違いを確かめようにも、そもそも嘘だらけの教団に対して、それは本当ですか、嘘ですか、と確かめようとしても意味がない
である。