教祖の本当の人格を知っている人はいるのか
私は知らない。今でもわからない。
直接話をしたこともないのに、教祖のことを信じてしまった。
どうしてか。
私の場合は、周りの人が信じていたからそうに違いないと思ってしまったからである。
殊に、私が信じた人間は、教祖の直弟子にあたるある一人の講師と呼ばれる人であった。
その人のことを思い返すのは今でもしんどい。
私から見て、講師になる人というのは、よっぽどの人である。あの教祖に対して、一時でも「あの人に一生涯ついていく」ことを決めた人なのである。いわば、自分の人生をその人に懸けた人なのだ。
そんな人(達)が、信じ切って礼賛している人が、おかしな人物だとは、疑う気持ちが起こらなかった。
しかし、考えてみれば、人間が誰かに惹かれるということは、同じようなメンタリティを持っているか、それに憧れているということなのだ。つまり、失礼な言い方をするが、教祖の直弟子になるような人は、元々教祖に似たメンタリティが他の人よりあるということなのだろう。もちろん、その程度には歴然とした差はあるが。だからこそ、弟子になって教祖と同じような人間になっていく。今は亡き元講師の言っていたことが印象に残っている。
彼らは講師部に入った時点で時間が止まってしまい、
講師部の流れの中だけで生きてます。
彼らにとって人間性とか人間の尊厳という言葉もありませんし、
又、スキルアップとかキャリアアップという言葉もありません。
問題が起きなければいいという思考。
上司に気にいられればいいという考え。
これを短く言うと、保身と責任転嫁になります。
長い人、上の人ほど駄目ですね。お前はどうだったのかと言われそうですが、・・
唯一信用できる元講師だった。あの中にあって相当変わり者だったことだろう。
要するに、教祖の弟子たちの世界に人間性とか人間の尊厳というものはなく、あるのは保身と責任転嫁だけ。これが何を意味するかといえば、それが教祖の姿であるということだ。
言われてみれば思い当たる。私の信じていた講師も、出会った頃から別れた頃までを思い返してみると、人間性が変わってしまった。
他にも、学生のときに少しお世話になったTさんは、数年後に会合や行事でみるといつもイライラしているのか焦っているのか落ち着かない様子で、出会った頃の、穏やかで知的な雰囲気は影を潜めていた。
地方の組織の束をまとめていたHさんはずっと講師の中でも序列が上のほうだったようだが、組織の雰囲気が目に見えておかしくなっていった頃、急に弁論大会に出て叫びだしたり、それまでにはなかった目立って組織にすり寄るような言動が多くなり、あれ?と思った。保身だったのだろう。
カルトでは、人間が変えられてしまう。どこか心の中に抵抗があればそのスピードも緩いが、「教祖に信順せねば!!!!」と自分から教祖に染まっていこうとすれば、あっという間に人間も変えられてしまって、そうなると本当に抜けることは困難だ。抜けても組織で染み付いたものは、なかなか消えない。